贄の街 1

 繁華街の喧噪を外れた街の裏通りに位置する、静かにジャズの流れるこぢんまりした店は池村のお気に入りだ。このバーに通うようになってから、カウンターの隅で一人静かにグラスを傾けていたのは知っていた。

 白髪をそっと撫でつけ目尻に皺をつくり、はにかみながら最初に声をかけてきたのはその児島だった。今日はグレーの生地に薄い格子の入ったスーツ。サラリーマンである池村が着ているような吊しではない。

「やあ、またお会いしましたね」

 児島からすれば若造だが池村には敬語をつかう。そんなスタンスに誠実さを感じる。当初は挨拶を交わす程度だったが今では時折、同じテーブルで飲む仲になっている。

 仕事はすでにリタイアしていて、「妻と二人の悠々自適の生活です」と笑う。子供はいないらしい。服装や持ち物から相当な資産家であろうと踏んだ。温良な人柄、また親子ほどの年の差があるせいか何でも話してしまう。児島は聞き上手でもある。会社のこと仕事のこと学生時代のこと友人のこと、現在単身赴任、そして妻のことも話した。

「急な異動だったので連れてくることができなかったのです」

 広告代理店に勤めている池村とクライアントとの打ち合わせの際、先方の助手として同行していたのが二歳年下の妻の杏子(きょうこ)だった。真摯な態度で人の意見に耳を傾ける姿に好感を抱いた。接するごと人となりに惹かれていった。しばらく付き合ってから三年前に結婚した。池村が二十八歳の時だ。

 結婚式の仲人は上司の吉田に頼んだ。了承していたのだが、急に自分よりもふさわしい人がいるといって辞退し、役員の今井を紹介された。社内報などの写真で顔は知っている。池村にとっては雲の上の存在だ。その今井の方から是非やらせて欲しいと連絡があったのである。

 小山のような体格に厳つい顔、眉が太く目鼻立ちが大作り、そのうえ塩辛声。だが口調は穏やかで晴れやかに破顔する。不機嫌なときは仁王のような顔になるという。あくまで噂ではあるが。

 杏子が横に立つと身長は今井の胸までしかない。吉田が「まるで大人と子供ですね」というと今井はおどけて杏子の肩に手を置いて背伸びをしてみせ、背丈の差を強調して豪快に笑った。

 洒落っ気のある気のよさそうな人物だが、時折見せる眼光の鋭さに威圧感を感じた。杏子の肩におかれた今井の指の太さと、胸にまで届きそうな大きさに、内心ゾッとした記憶がある。

 杏子は大学を卒業してから今の会社に勤めて七年になる。結婚したあとも働くことを望んだ。連れてこられなかったのは、その会社をすぐに辞めるわけにいかない、といった理由からだ。そろそろ子供が欲しいと思っていた矢先の辞令だった。

 本社に勤めていた池村の異動先は地方の支社だった。地方とはいえここ数年、本社よりも第一線で活躍する人材は多い。いずれは本社に取って代わる、といったうわさも聞く。

 池村が結婚したあと今井が、その支社へ移った。しばらくして池村の直属の上司、吉田が支社へ異動した。今井に引っ張られたのだ。そのまま吉田は部長に昇進した。吉田にとって、まさに栄転だった。

 池村は支社へ初出勤の日、今井に吉田とともに夕食をごちそうになったあと連れてこられたのがこのバーである。雰囲気や客層が気に入り、まだ短い期間だが常連のようになっている。白いヒゲを生やした実直そうなマスターが一人なのもいい。スナックやパブのようにがちゃがちゃした店はあまり好きではない。どちらというと一人でこのような雰囲気の店で水割りを傾けるのを好む。

「君はこういった感じの店は好きだろう」

 今井は確かにそういった。吉田にも話した記憶はない。そのときは役員の名は伊達ではないな、などと感心したが、よく考えてみると少々薄気味悪い。

 ともあれ、凡庸な吉田がこんな大物と親しいとは驚きだった。気になったがさすがにそこまで聞くことはできなかった。今回の異動はその吉田部長の手配によるものだ。もしかしたら今井の計らい、などと少々期待を膨らませたりもした。

 杏子に「左遷なの」などと驚かれたが決してそうではないと唾を飛ばして説明した。その杏子だが三十路に近づくにつれ、体の線の凹凸が増し、腰の括れが強調され、下半身が丸みを帯びてきた。やや肉づきがよくなったことにより、成熟した色香が漂うようになった。

 スーツ姿の臀部にうっすら浮かぶパンティラインに、密かにため息を吐いたほどだ。杏子が勤める会社の男たちが歩く後ろ姿のぱんと張ったスカートや、ものを取ろうと屈んだときに突きだされる球形を盗み見るのかと思うと、複雑な気分になる。

「奥様と離ればなれでは寂しいですな」

 心の内をいい当てた児島に正直に「はい」とうなだれた。

「もしよろしければこれから私の家で飲み直しませんか」

 突然の誘いだった。独り寂しくアパートに暮らす、三十を過ぎた男を不憫に思ったのだろうか。聞き役に徹してほとんど自分のことを話さない。そんな児島のミステリアスな生活に興味をもっていたので疼く好奇心を抑えようもない。思わず「ご迷惑でなければ、是非」と口にしていた。

 児島が呼んだタクシーに乗った。地方とはいえ、ビルが建ち並ぶオフィス街に入ると池村は「私が勤める会社はこの近くなのです」と身を乗りだした。

 幹線道路が少なく、向こう側へでるにはここを通る方が早いらしい。そこを通り過ぎてさらに走ると家々の明かりがまばらになった。日中であれば牧歌的な風景が楽しめそうだ。タクシーは前方に見える巨大な暗闇を目指した。

 そこは鬱蒼と茂った雑木林だった。縫うように一本道をくねくねと走る。ずいぶん遠くからバーへ通っているものだと感心する。こうしてタクシーで通えばいいのだろうが、池村のような庶民感覚では思いもつかない。

 ヘッドライトがなければ完全な闇だ。すれ違う車は一台もない。どこまで連れていかれるのだろうと不安を感じていると児島はタクシーを停車させた。

 到着したのは門灯のぼんやりとした光源に浮かぶ門扉の前だった。立派な青銅の表札に『児島』とある。タクシーが去ったあとは静寂に包まれた。

 マンションのエントランスにあるような、石柱に埋め込まれた近代的な銀盤のテンキーボタンをいくつか押した。門扉がかすかな音を立てて開く。中に向けて児島が手のひらを見せた。

 一歩足を踏み入れるとアプローチに明かりが灯った。淡い光の中、前方に中世の建築物のような洋館が浮かび上がる。城のような大きさではないが一般家屋の比ではない。静謐の中にそびえる洋館を見上げ、背筋にかすかな悪寒を感じた。

 洋館から人がでてきたのはわかっていた。女性だ。白を基調とした洋館のドアの前に和服姿で佇んでいる。近づくにつれその美貌に目を奪われた。

「妻の瑞枝(みずえ)です」

 児島がそう紹介した。

 簡単な挨拶のあと、建物の中へ誘われた。レトロな空間に目を見張る。羽でできた扇子を揺らめかせ、豪華なドレスを着た貴婦人が下りてきそうな、緩やかにカーブした幅の広い階段に、思わず感嘆の声をあげてしまった。妖艶な仕草で口元を手で隠し、艶然と微笑む瑞枝に心がざわめいた。

「案内を」と瑞枝に指示し、「ちょっと失礼します。あとで参りますので」と児島は背を向けた。

 階段を内股でゆるりと進む瑞枝の後ろ姿に息を飲んだ。視線は豊満な臀部に釘づけだった。一歩階段を上がるごと左右の肉が別の生き物のようにグラマラスにうねる。

 階上の長い廊下を嫋やか(たおやか)に歩む。和服の上からでも豊かな太腿まで確認できる。肉感的な躰は和服でも隠しようもない。

 巨大な桃のような球体が判然とフォルムを成している。音をたてないよう、どきどきしながら唾を飲み込む。

 着物の上からでも、着物がなくても、同じではないか。

 池村は、パンティラインがないことに気づいて、息をのむ。

 この躰を抱くのは児島。

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