贄の街 2

 案内された部屋は黒と臙脂(えんじ)で統一され、洋風と和風がミックスされた応接室。調度品はどれもこれも神々しいものばかりだが、瑞枝の前では霞んでしまいそうだ。

「どうぞおくつろぎください」

 どちらかというとハスキーな声。やや枯れているのは声の出し過ぎ、などと、ばかげた考えが頭に浮かび、密かに恥じた。

 勧められたソファーに腰掛けると体が沈み込んだ。耳に熱を帯びたまま座り心地を褒める。瑞枝は微笑みを返し、丁寧にお辞儀をして部屋からでていった。

 一人になると緊張がとけ、とたんに体の力が抜ける。

 座ったときから気になっている大理石のテーブルをそっと撫でてみた。あまりのなめらかさに慌てて手を引っ込める。艶やかなテーブルが瑞枝の肌のように思えたからだ。

 少ししてから小さくドアを叩く音がしたので返事をした。瑞枝が持つ盆の上に琥珀色の液体が入った細長い瓶とグラス、小振りのアイスペールがのっている。

 しなやかな指を袂に添えて給仕を始めた。腕の白さにどきっとする。

 屈んだときに腰のラインに素早く視線をあてる。丸みを帯びた下半身から視線を上げると、ふくよかな胸元に目がいく。ふっくらした唇に視線を走らせる。思い切ってわずかにあいた襟首を一瞬だが覗き込んだ。肌はもっと白い。静まりかえった室内に、グラスに当たる氷の音が響いた。

 唇に紅を引いただけの化粧気のない顔だが、とても美しい。やや厚めの唇の端にほくろを発見する。瑞枝が前屈みになったときに芳香を感じた。もしかしたら体臭。

「どうぞ」

 耳元で囁かれたような気がして緊張した首が震えそうになった。

「あの、本当にどうぞお構いなく」

 目の前のオンザロックを見て今頃になってしどろもどろで答えた。恥じ入り、かっと顔が熱くなる。瑞枝は艶やかな笑みを見せた。

 ノックの音が聞こえると、「あら」と華やいだ声をあげた。

「お客様がいらっしゃるのに、どこにいらしたの」

 児島の目を意識ながら、ドアに駆け寄る瑞枝の臀部に視線を泳がせた。

「ちょっと野暮用がありまして、どうも失礼しました」

 身長は瑞枝の方が高い。体重も細身の児島より明らかに瑞枝の方があるだろう。ノミの夫婦といえなくもない。児島の年齢でも夜の営みはあるのだろうか。どのようにしてあの躰を抱くのだろう。瑞枝は満足しているのだろうか。子供はできなかったのだろうか。それともあえて作らない。とすると避妊具は等々、刹那の間に淫らな妄想に耽った。

「おつまみを」

 児島の声に我に返り、一人汗顔した。瑞枝がでていくと、「何か失礼はありませんでしたか」と聞いた。

「とんでもないです」と手を振り、「若くてきれいな奥様ですね」と思わず口からでていた。瑞枝のことしか考えていないことを暴露したようで冷や汗をかく。

「褒めすぎですよ池村さん。でも彼女にいってやると喜びますよ。もう四十を過ぎた女ですが」

 謙遜としか聞こえないが本当にそう思っているのかもしれない。児島にとってはもはや古女房なのだろうか。妻の杏子よりも少し上かなと思っていたので、四十歳を過ぎていると聞き驚いた。

「もっとも還暦を過ぎた私の年齢からすれば若いかもしれませんな」

 自嘲気味に笑う。

「ええ、お二人ともとてもお若いです」

「ははは、私もですか」

 バーにいるときとは様子が違い、何となく屈託があるような気がした。必ず相手の目を見て話すのだが、今はあまり視線を合わせようとはしない。

「ここにはお二人で」

「ええ、そうです。遠慮せずにどうぞ。これはロックがよろしい」

 グラスを口にあてるとガラス玉のように透明な氷がからんと音を立てた。甘い香りとまろやかな味が口の中に広がる。池村が日常的に飲めるようなウィスキーではない。このおいしさはレベルが違う。それを伝えると児島は顔に皺をつくった。

 瑞枝が入ってきてレストランのオードブルのように、つまみがきれいに盛りつけられた皿を並べた。礼をいい、自然な動作で胸の膨らみに視線を移す。児島が目の前にいる手前、でていく後ろ姿を見ることはできなかった。

「とても大きなご邸宅ですね」

「あんな階段がある割りには部屋数も少ないですし、たいしたものではありません」

「ご謙遜でしょうが、お掃除なんか大変なのでは」

 瑞枝の立場で考えている自分に、首から上がまた熱くなった。

「大人二人なので部屋は汚れませんので」と笑う。「私のような小僧がおじゃまするようなご邸宅ではありません」

「小僧だなんて、池村さんをそんな目で見たことはありませんよ。しっかりしたお考えをお持ちの人格者だと思っています」

「そんなこといわれたことがありません」

 真剣な表情の児島に池村はおおいに照れた。

「ところで」と、その表情を崩さずに児島は口ごもった。グラスを持ったまま視線を落として口を開かない。

「何でしょうか」

 促すようにいうと、児島は顔をあげた。柔和な表情に戻っている。

「瑞枝、妻のことなのですが、どう思いますか」

 思いがけない質問だった。

「どういう意味でしょう」

 唾を飲み込んだのを児島はわかったかもしれない。

「何か変わったところがなかったか、とかです」

「今日お会いしたばかりですので」

 妙な質問に面食らう。

「私としたことが失礼な質問をしました」

「とんでもございません。変わったところなどお見受けできません。とても素敵な奥様です」
またしても瑞枝を褒めてしまった。照れ隠しにグラスに手を伸ばす。

「それはありがとうございます。その妻ですが今は、いえ、ずいぶん前から私以外の男のものになっているのです」

 池村は安易にうなずいていた。聞かされた内容と表情とのギャップがありすぎて咀嚼できなかったのだ。ワンテンポ遅れて、「は?」と聞き返したあと、危うく手からグラスが滑り落ちそうになった。

「肉体は奪われましたが、心はどうなのでしょうかねぇ。まだ私を慕ってくれているとよいのですが」

 恐ろしいことを淡々と話す児島が信じられなかった。瑞枝とごく普通に会話をしていたではないか。

「少々阿漕な商売をしておりましたので、私には腹を割って話せる友人がおりません。私よりもずっとお若いですが池村さんのことはとても好ましく思っております」

 池村の動揺を置き去りにして児島は続ける。

「こんな私と話をするのが楽しみだとおっしゃってくれた。私はあとはただ老いるのみですが、こんなお若い方に友のように接していただけるのはとても幸運なことです。恥を忍んで全てをお話しておきたいと思ったのです。今まで自分のことをあまり語らなくて申し訳ありません」

 児島は自身の境遇を語った。

 児島は投資家であり、法人も個人も経験した。多くの資金があったわけではないが、その才があった児島は一代で富を築いた。違法すれすれの領域にも手をだし、危ない目に遭遇したことも一度や二度ではない。儲けることに執着していて結婚を深く考えていなかったが十数年前、関係者主催のパーティで年の離れた瑞枝を見初めた。結婚を機にこの世界から足を洗った。二人で各国を旅行したり、買い物に付き合ったりして楽しい時間を過ごした。その瑞枝が数年前から、夫である児島以外の男のものとなっているという。

「ある日、『奥様の肉体を管理しているものです』と男から電話があったのです。前触れもなくストンと深い穴に落とされたような気がしました。男はさらに、『お電話を差しあげたのは、奥様のショーのご案内です。メールにて詳細をお伝えいたします』といったのです。私のメールアドレスは妻の携帯にありますから」

 肌が粟立った。

「彼らが妻のを見たのでしょう。送られてきたメールには場所と時間がかいてありました。あとは脅迫じみた内容です」

 児島は”彼ら”といった。複数の人間が関わっているのだ。その恐怖もあり、諦念(ていねん)したのだろう。

「妻は私が気づいていないと思っています。あちらでそう動いている節があるのですが」

 自分の妻が他人のものになっている事実を児島は淡然と話す。その”彼ら”は瑞枝に、夫の前では悟られないよう指示をしている。その裏で夫には赤裸々に明かす。

 児島はショーを見たのだろうか。語らなかったのでこちらからは聞きづらい。”彼ら”ということは何人もの男が、あの豊満な瑞枝の肉体を……。

 ノックの音で児島は口を閉ざし、池村は姿勢を正す。

 瑞枝が氷のおかわりを持ってきた。同じ一室に瑞枝がいるだけで息苦しかった。まともに顔を見ることもできない。

 帰る旨を伝えるとタクシーを呼んでくれた。料金が支払い済みであることをのちに知る。

 ショーであるからには”彼ら”と瑞枝の淫らな絡み、もしくは”彼ら”が一方的に瑞枝を嬲る可能性もある。それを夫に見せるという残酷な図式に何を求めているのだ。

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