贄の街 9

「ぼーっとしてどうした。気分でも悪いのか」

 今井の声に我に返る。

「いいえ、そんなことはございません」

 エレベーターの中で、吉田にいった同じ言葉を、繰り返していた。

「しっかりしてくれないと困るぞ。君は今日から階級が上がるのだからな」

「え」

 驚いて振り返ると吉田は笑っていた。

「今日から君は吉田君のすぐ下の地位になるのだ。吉田君も、うかうかできなくなるな」

 二人で笑っている。寝耳へ水の果報とはこのことだ。

「君がここに定住できるよう計らおう。奥さんも呼んでやれ。住む場所を手配してやろう。もちろん君と相談しながらだ。金は心配するな、手当の方で何とかしてやる。そういえば奥さんは働いているのだったな。それも何とかしないといかん」

 このところ吉田の機嫌がいいのは、このことだったのだ。

 仕事は心血を注いでいる、とまではいかないが、一生懸命こなしている。が、他を圧倒するほど抜きんでているとは思えない。業績としては同輩と大同小異。吉田部長にかわいがってもらっているせいだろうか。その背後に今井がいる。とはいえ、この昇進はうれしかった。会社というのはこういうものなのだろう。

 会社の帰り気分が高揚した勢いで、久しぶりにバーへいった。児島はいつものカウンターの席にいた。

「しばらく見えませんでしたね」柔和な笑顔に緊張していた心が和らぐ。礼をいい、ここへこられなかった理由を正直に話した。吉田の名はださなかったが、静代の名はいった。

「そうでしたか、そうであれば」表情を曇らせ「もう、どうしようもありませんね」と続けた。そうであれば妻と同じ、といおうとしたのだろうか。聞くと静代の名は知らないという。

 昇進のことと妻がこちらへくる段取りがついたことを話すと心から喜んでくれた。

「その専務が仲人をしてくれたのです。そんなわけで実力などではありません」

「お宅の専務というと、高岡さんか今井さんかな」児島が眉を上げる。

「今井です。ご存じですか」

「お偉方の何人かは知っています。といってもお顔を知っている程度ですがね。ずいぶん前ですが、とあるパーティで一度だけ今井さんと話しをしたことがあります。先方は私のことなど覚えていないでしょう。そんなわけで名前だけは存じあげているのです」

「そうでしたか」

 今井が専務になった比較的最近のことまで知っていた。未だ得体のしれない部分がある。そのことを素直に告げると、「そんな大層なものではありません。ずいぶん前に池村さんの会社の株を、少しですが買ったことがありますのでね。従って会社の状態は確認させていただきます」とはにかむ。昔は阿漕な商売とやらで豪腕を振るった児島だが、今は仙人のような風情を漂わせている。

「それはそうと、彼らは私の妻を披露するそうです」

 この手の話しはいつも唐突に切りだす。この震えは武者震いか。

「今度は間違いなく妻ですので、池村さんも安心してご覧になれます」

「み、見られるはずがありません」

 うろたえるしかない。

「本当に遠慮なさらずとも結構ですよ。私はもうこのとおり、あきらめております、といいますか、達観していますので。どんな組織かもわらないし手も足もでません。妻に打ち明けて家をでていかれるのは困る。家では私によく尽くしてくれます。今さらこの年で独りになりたくはないのです」

 吉田が引っ越し業者を手配するといったが断った。荷物はたいした量ではない。大きな家具もない。会社から借りた小型トラック一台で十分だ。手伝おうといってくれた同僚もいたがそれも丁重に断り、引っ越しは全て一人で行なった。

 アパートにトラックを横づけして最後の荷造りをしていると、隣の家から奥さんがでてきた。太ったご主人も一緒だ。

「もうお別れですのね」

 奥さんはそんないい方をした。胸にコサージュのあるシックなフォーマルスーツに身を包み、ブランドのバッグをさげている。スタイルがいいのでとてもよく似合う。休日のはずだが、太ったご主人もスーツ姿だ。聞くと息子の授業参観があるらしい。

「いろいろとお世話になりました」

「とんでもないお世話だなんて。ご出張は終わりですのね」

 単身赴任であることは話してあった。ここに永住するであろうこと、街のずっと外れに位置する戸建てに引っ越すこと、妻と暮らせるようになったことなどを話すと、おおげさに喜んでくれた。

「同じ街でしたら、またどこかでお会いできるわね」

 奥さんと離ればなれになるのが惜しいが、そんなことをいっている場合ではない。明日、杏子がこちらへ越してくる。今日中に自分の荷物だけは整理しておく必要がある。少ないとはいえ小物の整理に時間はかかる。二人の後ろ姿に頭を下げて池村は車に飛び乗った。

 今井がいくつか推薦した戸建てはどれも気に入った。大手の不動産に知り合いがいるらしい。決め手はやはり環境だ。新しい家から一歩踏みだすと小川のせせらぎを耳にすることができる。広い公園もある。子供ができたら遊ばせるにはもってこいだ。緑豊かな地域だが近未来的な建物もいくつかあり、のどかな田舎ということではない、といったところも気に入った。

 助かるのは今井の計らいで、月々のローン返済の大半が、手当で何とかなることだ。なぜここまで世話を焼いてくれるのか、といった疑問もあり、それとなく吉田に確認したところ、「会社のために一生懸命仕事をしている君のことが気に入ったのだ。専務自らそういっておられた。俺がこの耳で聞いたから間違いない」と肩をたたかれた。「もしかしたら、君の奥さんのことが気に入ったのかもしれんな」などと冗談をいって笑った。

 次の日、杏子がきた。大挙して押し寄せたトラックに積まれた荷物が部屋を占拠することになる。

 昇進の喜び、新居、妻との生活、目の前で見た静代の嬌態、間近に迫る瑞枝のショー、これらが頭の中でごちゃごちゃに入り乱れ、自分でも驚くくらい性欲が沸いた。久しぶりの妻の体がとても新鮮に感じた。

  *

 数日後、その日は朝から気もそぞろだった。

 早めに会社を退社してそこへ向かった。場所も条件も同じ。

 テンキーを押すと金属的な声がした。

 小松田だ。

 心拍数が変化する。

 部屋番号は前と違うが室内は同じつくりだった。やはり、のぞくための部屋がいくつもあるのだ。

 丸窓の向こうには、静代が悶えた例のベッドが置いてある。敷いてあるシーツは同じ純白だ。ただし、室内の様相は異なっていた。倚子が置いてある。見たことはないが、産婦人科の分娩台のようなものだろう。

 足や手を拘束するための黒いバンドが付いている。明らかに女性を辱めるための倚子だ。さらに天井からロープが何本も垂れ下がっている。

 あのベッドの上で小松田に貫かれ、静代の乱れた肢体が脳裏から消えることがない。静代の嬌声が耳朶にこびりついている。

 そして――今日は、瑞恵。

 分娩台に拘束されるのは、瑞恵。

 ロープも使うのだろうか。SMの二文字が池村の脳裏をかすめた。

 ベッドの部屋に明かりが灯った。心臓がひとつ、どんと鳴る。ドアが開き女が入ってきた。池村は腰を浮かせた。

 瑞枝だった。

 初めて会ったときから何も変わらない。

 瑞恵は妖艶だった。

 豊満な肢体の瑞恵が、美しい瑞恵が、分娩台に拘束されるのだ。

 開脚を強要され身動きがとれないように両足を固定され、男に女の全てをさらし、恥ずかしい部分を見られ、嬲られ、肉付きのよい太ももをわななかせ、乱れ狂うのだ。

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